📚これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学
20250805
第1章 正しいことをする
便乗値上げを禁じる法律の是非は、道徳と法律に関する難問。かつ、美徳も関わる。
「正義」にかかわる問題。
賛成論と反対論は、3つの理念が中心。
福祉の最大化
自由の尊重
美徳の促進
反対派は、福祉と自由の論拠を持ち出す。
市場は社会全体の福祉を増大させる。
自由に価格を決めるのを取り上げるべきではない。
賛成派は、福祉と自由に反論する。
福祉については、困っているときの法外な請求は福祉に資することはない。
自由については、需要と供給という取引によって値段は決まっておらず、ただの強要に近い何か。
福祉、自由の他にも論点が。道徳的議論がある。不正義に対する怒りが。
何かを不当に手にしている人がいると思うときに生じる。
強欲という悪徳を働いていて、それにより利するのではなく罰することによって犠牲を分かち合う市民道徳が支持されるべき、と。
なにが美徳でなにが悪徳かは誰が判断するのか。ジレンマがある。
窮状を食い物にする強欲は罰せられるべき。
一方で、美徳に関する判断が法律に入り込むのは懸念が。
正義をめぐる古代の理論は美徳から、近現代は自由から。
ざっくりとはそうでも、まぁそんなに単純ではない。
正義について考えるなら、最善の生き方について考えざるをえない。
アメリカ軍では、戦闘中に負傷もしくは死亡した兵士に勲章が授与される。
心の傷を負う兵士も少なくない。かつ、長いこと悩まされることもある。
心の傷には勲章は与えられないのか?与えられない、ということに。「血を流すこと」が必須の条件に、という風潮も。
この論争は、徳性と犠牲という対立する概念の評価になる。
こんにちでは福祉や自由に関する考察が必要な領域の議論が多いが、これらも同じ。
金融危機の際、大手の潰れては困る金融会社や銀行が納税金により国から救済資金を得た。
そんな中、それらの企業幹部がかなりの額のボーナスを受け取っていることが問題に。
怒りが爆発。
怒りの核心にあったのは、正義に反するという感覚。
失敗した経営者が、税金により報酬を得ていることに対する不満。
幹部側の主張は、金融危機は避けられず、責任はなかった、というもの。だからこれまで同様受け取ってもいいという考え。なので、謝罪もなかった。今まで通り懸命に働いており、それに対して報酬を得ているという感覚だったため。
が、そうだとすると、好景気のときにあげた利益も経済の力によるものでは。それに伴って危機の時の倍以上の報酬を得ているが、がんばったからではないとなってしまうのではないか。
経済の力によりたまたま利益が生まれ、たまたま損失を被る。なら、どちらにおいても報酬を得る、あるいは利益が大きいときに大きい報酬を得るのはおかしくなる。
企業救済によるボーナスの議論から、好況のときに誰が何を受け取る権利があるかという問題が提起された。でそれは、正義に関わる。
ある社会が正義にかなうかどうかを問うことは、われわれが大切にくるものがどう分配されるかを問うこと。
ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うことは難しい。
便乗値上げ、勲章、企業救済からすでにそういう問題を扱い始めている。
三つの観点、福祉の最大化、自由の尊重、美徳の涵養。これらの理念は正義について異なる考え方を示している。
それぞれに強みと弱みが。
路面電車の思考実験。
暴走した列車がこのままいくと5人を跳ねてしまう。
1. レールを切り替えることができるが、そこには1人の作業員がいる。切り替えるべきか。
2. 橋の上に立っている太った人を突き落とすことができ、それによって電車を止めることができる。突き落とすべきか。
どちらも5人を救うために1人を犠牲にする、ということでは同じ。が、道徳的に1.はよくて2.は悪く感じる。
道徳的な違いを論理的に説明するのは難しい。
道徳的な論証は、他人を説得するためだけでなく、自分が何を、なぜ信じるかを理解する方法でもある。
路面電車のような架空の例では、不確実な要素を取り除き、問題となる道徳的原理を分離して検証できる。
アフガニスタンのヤギ飼いの話は、実際にあった話。
アフガニスタンに潜入しているシールズが、農夫と少年のヤギ飼いにでくわした。縛るものはなく、殺すか、解放するかしか選択肢はない。
解放したら、タリバンに自分たちの存在を知らされてしまう、かもしれない。
何の罪もない相手を殺すことは良心に反する。解放してもタリバンには知らせない、かもしれない。
結果的に解放したが、知らされてしまい、大きな犠牲がともなった。
ヤギ飼いがタリバンのシンパかもしれないし、争いには中立かもしれないし、反タリバンかもしれない。
上記二つのジレンマのようなことは起こらないかもしれないが、考えることによって道徳に関する議論がどう進むものかがわかってくる。
正しい行いに関する一つの意見や確信から出発→根底にある原則を見つける→原作にそぐわない状況に直面し、混乱→混乱と混乱の分析を迫る圧力を感じることが、哲学への衝動。
これにより原則を修正するかも。
この心の動き、具体的状況における判断と判断の土台となる原則の間の行き来に、道徳についての考察が存在。
道徳の考察は孤独な作業ではなくて、社会全体で取り組むべき。
正義の意味などを理解するには、先入観を叩き台としてスタート。
本書は、読者に、正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろう、そして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見極めてはどうだろうということを勧める。
第2章 最大幸福原理ー功利主義
四人の船乗りが難破。そのうち雑用係の少年が衰弱し、他の三人はその少年を殺害して飢えを凌いだ。
三人を救うために一人の命が必要だった、と弁護人は主張。
雑用係を殺すことで得られる利益は、コストを上回るのか?
行動がもたらす結果だけに道徳性は依存されるのか?
仮に利益が上回ったとしても、それらを超越した社会的理由から正しくないのではないか?
道徳的に言えば結果だけを考えるのでは適切ではない?
ベンサムの功利主義。
道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の全体的な割合を最大化すること
誰もが快楽を好み、苦痛を嫌う。
よって道徳生活と政治生活の基本にも、快楽を好み苦痛を嫌う事実が組み込まれている。
よって、どんな法律や政策を制定するか決めるにあたり、政府は共同体全体の幸福を最大にするためあらゆる手段をとるべき。
choiyaki.iconもしそれがとられていると仮定するなら、法律や政策を重視する、ということさえ、功利主義に適った行動である、と言える。殺人は「基本的人権の尊重という絶対的な権利に反するからダメ」と考えてたけど、それすらも最大多数の最大幸福を目指しているということになりうるのか。
あらゆる道徳的議論は、暗黙のうちに幸福の最大化の考えに依存している。
パノプティコン(円形刑務所)や貧民管理というアイデアをベンサムは提起。
どちらも採用はされなかった。
功利主義は個人の権利を尊重しない。
1人の残忍な死やうけた拷問が、それによって大勢の高揚を引き起こしたり命を救い得るとしたら、是とされる。
道徳にまつわる事物を単一の価値通過に換算できるか。
例えば、命の価値はいくらか。
一つの命をお金に換算すると、算出する主体によって値段は変わるし、それを費用便益分析に用いるのは道徳的によろしくない。
一方で、制限速度は引き下げられない。それにより交通事故者数は減るとわかっているが、ガソリンの消費量は増す。ガソリンの消費量減を目的として制限速度が今のままなら、それは結果的に命に値段をつけていることになる。
功利主義に対する上記の反論に答えられると信じたジョン・スチュアート・ミル。
功利主義哲学を、個人の権利と調和させようとした。
『自由論』の中心原理:人間は他人に危害をおよぼさないかぎり、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべき
この原理は、功利主義とコンフリクトするのでは?
少数の信仰をつぶすことで、それを嫌う大多数の効用が上がるなら、最大多数の最大幸福になるのでは?
この場合、少数の人の自由を奪っている。
否。長期的観点からの効用を最大化しさえすれば。長期的に見れば、少数の人の自由を毀損すれば全体の幸福は減少する。
ミルの考察はもっともらしいが、個人の権利について、納得できる道徳的基礎を提供するものではない。
専制的手段によって長期的幸福を達成する社会がある場合、その社会では功利主義者は権利を必要ないと結論づけるのでは?
自由なくとも幸福では?
功利主義的な考えによって、個人の権利の侵害がダメなのは社会的に悪影響を及ぼすから、という風に捉えてしまうようになるのでは?
本来なら社会全体に関わらず、侵害していることがダメなはずなのに。
これに対するミルの答えは、道徳的理想に訴えるものであり、そうなると功利主義的な考えを否定するものとなる。
ベンサムの価値の考え方は、単一のもの。快楽や苦痛の強さと持続期間しか考えない。単一の尺度で測れて、比較できる。
質の高低もあるじゃないかという反論も。これに答えるのがミルの考え方。
ミルは、質も考えた。道徳的義務感に関係なくはっきりこちらがいいと選ぶものがあれば、そのほうが望ましい質の高い快楽である、と。
ただ実際は、この判断ではつかないものも。見るのは好きなシンプソンズ、でも質は高いと感じるシェークスピア。はっきりシンプソンズが選ばれるなら、ミルにとってはシンプソンズが質が高い快楽、となる。
この考えでは、効用から離れて道徳的理念に訴えることに。
功利主義から離れることに。
第3章 私は私のものか?ーリバタリアニズム(自由至上主義)
莫大な富を持つものの一部を貧しい者に分配することは、功利主義的には是とされそう。が、2つの反論が。
富を税として徴収することにより、働くことや投資への意欲減退につながり、経済的パイを小さくしてしまう。それにより効用の全体レベルが低下する。
課税自体が不正義。自分のお金を自分の自由に使えなくするので、基本的人権の侵害にあたる。
こういう論拠で反対する人は、リバタリアンと呼ばれる。
リバタリアンが拒否する3つのタイプの政策。
1. パターナリズムの拒否
自傷的行為を行うものを保護する法律への反対。ヘルメット、シートベルトするかどうかは、乗る人の自由。どんなリスクを取るか指図する権限はない。
2. 道徳的法律の拒否
道徳的に反対される売春であっても、本人が同意していたらいい。
3. 所得や富の再配分の拒否
再配分のための課税は強要であり、盗み。
フリードマンは、最低賃金法も雇用差別を禁じる法律も職業についての資格要件もすべて間違った介入である、と主張。
分配の正義に対する、哲学面からの反対意見。
契約の履行、暴力、盗み、詐欺から国民を守ることだけが、国家が持つべき権限。
分配に関しては、
元手が合法的に入手されたもので、
自由な取引によって資産を作った
のであれば、それを分配のためであれ同意なしに取り上げるべきではない。
課税は、国家が事実上私に対する所有権を主張していることになる。
私が得た収入(時間をかけて私に再分配されたお金)が課税ならなんなりで徴収されるとする。それはつまり、時間が奪われたことと同等。ならばそれは、所得を取り上げる代わりに労働に費やす時間を要求していることと同じ。強制労働を強いていることと同等で、つまりは所有権を主張していることに。
一部ではあるが、私の所有権を主張することに。
課税に対するリバタリアンの主張に反論はいくつかあるが、そのほとんどには回答が可能。
自己所有権、つまり、自分のものをどう扱おうが自由であるという概念には説得力がある。自らの腎臓を、2つ売ることに対しても、正当化しうる。
2つ取り除くと命を落とすにもかかわらず。
幇助自殺をさえも、それを処罰する論理は自己所有権にはない。
第4章 雇われ助っ人ー市場と道徳
徴兵制と身代わりを雇うのありの徴兵制、志願兵制の3つにおいて、功利主義者もリバタリアンも志願兵制を支持することに。
反論1:格差のある社会においては貧困層は自由に職業やお金を得る方法が制限されており、志願せざるを得ない状況がありうる。
実際、志願兵には貧困の地域出身が多い。
反論2:陪審員制度は、義務をおうべきという考え方があるから法廷と国民の絆を維持できてる。兵役にも同じことが言え、兵役が市民権を表現し、深める。